【孤独で不安なあなたへ】自由からの逃走/フロム

 自由は素晴らしい。こうしてブログで考えたことを表現できるのも、好きなところに旅行できるのも、すべて先人たちが自由を獲得してくれたおかげである。
 一方で、自由であるということは将来への不安が付き物である。周囲を見回すと、その不安につけ込まれて、転職や自己啓発や投資などに駆り立てられている人が多いように感じる。
  フロムの著作『自由からの逃走』は、「自由」の功罪を見つめ直し、社会を逞しく生き抜こうと勇気付けられる名著であった。本作を読んで考えたことをシェアしたい。

 

 内容の要約は至る所で目にすることができるが、改めてまとめると概ね以下の通りである。

 人々はルネサンス宗教改革、資本主義と、歴史を通じて自由を獲得してきた。
 一方で、自由の副作用として、自立した個人が孤独や不安、無力感といった感情を抱え込むこととなった。
 自由の重さに耐えかねた個人は以下のような行動を起こす。
 ①権威主義に陥り権威へ盲従したり他者を支配しようとする、②破壊行為によって他者との共棲から逃れようとする、③自己を棄てて社会に埋没する
 これらのメカニズムが最悪の形で具現化してしまったのがナチスである。
 孤独の恐怖を解消する方法は、人間や自然と自発的な関係を結ぶことである。
 個人と世界の調和のうちに、真の自由が達成される。

 

 二点内容の妥当性に疑問を感じたので、掘り下げたい。

1.社会システムの変革は現実的か
フロムは以下のように述べて、フロイトの理論を批判している。

 フロイトは彼の属していた文化の精神によって、非常にゆがめられていたために、その限界からさらに進むことはできなかった。まさにこれらの限界が病的な人間を理解するさいの限界となっていた。またそれは正常人の理解にも、社会生活に起こる非合理現象の理解にも、不利な条件となった。

 しかし、これはフロム自身にも当てはまるのではないか?
  反抗期という一過性の時期を、社会の一般的な法則として措定していること。歴史が一方通行的に進むという世界観や、人間と動物の違いを強調する記述から垣間見えるユダヤ教キリスト教の影響。作中では当たり前のように書かれているが、必ずしも当然視はできないと感じる。
 思うに、結論ありきな側面が多分にあったのではないか。フロムは、マルクスの資本主義批判にフロイト精神分析の理論を融合させた人物である。文章で前面に押し出されてはいないが、資本主義に対する批判が本書の裏テーマとなっていると推測する。

 しかし、資本主義というシステムに責任を負わせることは適切だとは思わない。人間の性質が変わらない以上、社会の仕組みは変わらないのではないか。土地を媒介として領主が支配する中世から、金銭を媒介として企業が支配する資本主義へと移行したものの、結局人が人を支配するという構造は変わっていない。社会システムを丸ごと入れ替えるより、個人の行動を少しずつ変えるほうが得策だと思う。

 

2.結論は実践可能か
 本書も、社会の変遷に触れつつも最終的には個人の自助努力を勧める形で着地している。
 結論である、自発的に自然や人と関わること(=愛)。これは全くの正論であると思う。しかし、窮乏している人ほど実践が難しい。卑近な例を挙げると、仕事の締め切りに追われている時は、目の前のタスクを処理することで精一杯だ。中長期的に業務を改善しようと考えたり、同僚と情報交換するどころではない。自発性の発揮には余裕が必要なのである。個人の努力に委ねてしまうと、豊かな人がより豊かになって、貧しい人がより貧しくなりかねない。だから、本書のメッセージは、本当に助けを必要としている人には届かないのではないか、というもどかしさを感じる。

 

低いハードルから始めよう
 では、将来に漠然とした不安がある、希望が持てない、という閉塞した状態からはどう脱出すればよいのだろうか?
 一日一つでいいから、気になることや新しいことをしてみることが一つの打開策となると思う。ハードルは低ければ低いほどいい。
 例えば、こういったことでも十分である。

  • コンビニで新しい飲料を買ってみる
  • 一本隣の道を通って通勤してみる
  • いつもの定食屋で、普段頼まないメニューを頼んでみる

 始めは何も感じないかも知れないが、ああしたい、こうしたい、という思いがきっと少しずつ出てくるはずである。焦らなくていいから、その時を気長に待とう。それがフロムのいうところの「真の自由」の端緒である。