【グレーゾーンを取り戻せ】街の上で/今泉力哉

 今泉力哉監督の映画『街の上で』を観た。東京の下北沢を舞台にした恋愛群像劇である。古着屋で働く主人公・青は、物語の冒頭で恋人の雪に振られてしまう。雪を諦めきれず悶々としていたところ、自主制作映画への出演を依頼され、何気ない日常にちょっとした変化が起こる、というあらすじである。

 

 まず、リアリティの高さが印象に残った。登場人物たちが本当に下北沢に暮らしているのではないかと錯覚した。景色は実際に下北沢でロケをして撮られており、この場所はあの辺りだな、とつい現実の世界とリンクして観てしまう。私は学生の頃下北沢に度々行くことがあったので、知っている場所が出てきて嬉しい気持ちになった。また、作中では会話シーンが占める割合が多いのだが、現実の会話のようにたどたどしさや微妙に噛み合わないぎこちなさがあって、演技であることを忘れてしまう。

 

 作品にさらにリアリティを持たせる仕掛けとして、街ゆく人々にもディテールが張り巡らされている。一例として、古着屋に来ていた若い男女に着目してみる。物語の序盤で青の務める古着屋に来た時は、二人は微妙な関係性であった。女性は男性のことが好きなのだが、男性は別の女性のことが好きで、告白するための服を買いに来ている。男性はもし一番好きな女性から振られたら、その時は付き合ってもいいよと言うが、女性は複雑な心境である、、、と端役にも関わらず具体性の高い設定となっている。そして二人が物語の終盤で一瞬画面に写り込んだ時には仲よさそうに歩いており、この二人にも映像に写っていない間に物語があったのだな、と思わされる。本作はあくまで青の物語として編集されているが、名もない登場人物にさえ、ドラマがあることが伝わってくる。それによって青の周囲の人間関係に留まらない、下北沢という街の広がりを感じるようになっている。

 

 ストーリーには大きな起伏があるわけではなく、平凡な日常生活の一部を垣間見ているようである。それでも観終わった後に充実感が残った。故郷に戻ってきたかのような懐かしさ、安堵感である。その正体を考えてみると、今は失われつつある濃厚な人間関係で構成されたコミュニティへのノスタルジーではないかと思い至った。

 

 青は下北沢という場に根ざした人間関係に包摂されている。例えば、バーや古本屋やカフェなど、行きつけの店がいくつもある。仕事の合間に顔を出し、店の主人や常連と何気ない会話を楽しんでいる。しかも、元恋人の雪が、青の行きつけのバーのマスターに青との関係を相談していたり、亡くなってしまった古本屋の主人について、青とカフェのマスターが思い出話をしたりと、お互いが共通の知り合いである。青は身近な人間関係のネットワークに囲まれて暮らしているのだ。

 

 社会の変化に目を向けてみると、人々は地縁と血縁に囲まれて暮らしていたが、仕事の為に縁もゆかりもない場所で働くようになり、家族も核家族化、そして非婚化へと規模を縮小していった。その結果、個人は社会にむき出しで放り出されるようになり、温かい人間関係がどんどんと貴重なものとなった。流動的な人間関係の中で、承認をもらうために汲々とするようになった。私も地元から上京しており、地域の顔見知りに囲まれて暮らす生活には一種の憧れのような感情がある。

 

 また、青が所属する下北沢のコミュニティは「ムラ社会」というワードで象徴されるようなネガティブな側面を感じない。例えば理不尽なしきたりや排他性、停滞性のようなものである。強迫観念的に結びつきを求めるのではなく、程よい距離感を保ちながらもゆるい繋がりがあるところが今っぽいと感じた。

 

 青は地味で押しの弱い、不器用な青年として描かれている。出演を依頼された自主制作映画の出演シーンも、演技がガチガチすぎて結局カットされてしまった。しかしそれで良いのだ。なぜなら周囲の人間関係という帰れる場所があるからである。失敗の苦悩を一人で抱え込む必要はなく、またチャレンジへと踏み出すことができる。帰還場所の存在が、青に柳のようなしなやかな強さを与えているのではないだろうか。

 

 流動的な人間関係の元では、能力主義に則って自己承認を求めざるを得ない。そこで支配的になるのは合理性や経済性といった観念である。しかし、それだけでは息苦しくなってしまう。日本では「ムラ社会」の記憶から、コミュニティへの拒否反応が蔓延しているように思われる。しかし、しがらみの否定の一辺倒では、どんどん能力主義のドツボに嵌ってしまうだろう。ゼロ百ではなく、ゆるいつながりというグレーゾーンを生み出す努力が求められているのではないだろうかと感じた。

 

遠ざかる故郷の空 帰れない人波に
本当の幸せ教えてよ
壊れかけの radio

壊れかけのRadio/徳永英明