【居場所がないときは〇〇】父と子/ツルゲーネフ②

 前回に引き続きツルゲーネフ父と子』について書いていきます。
 物語のキーパーソン、バザーロフについて分析してみます。

 彼は地方の医師の家に生まれるが、ペテルブルグの医学部に進学したという秀才です。今でいうと、地方公務員の息子が東大理三に通っているようなイメージでしょうか。
 宗教や芸術といった既存の権威や価値観を全面的に否定し、科学的な見地から合理的に考えることを信条とします。
 毒舌で、非合理と思われるものには噛み付いていくという孤高の天才ですが、一方でピュアな部分もあり憎めないキャラクターです。
 MBTでいうとIINTJみたいなタイプですね。

 極端なキャラクターではありますが、彼に共感を覚える部分がたくさんありました。
両親よりも恵まれた教育を受けさせてもらえて、都会に進学・働きに出てきていること。既存の価値観に対する懐疑精神。なんでも理屈で片付けようとしてしまうところ。笑

 私以外にも、自分のことかな?と感じる人も多いのではないかと思います。

 彼の信条はどのように形成されたのでしょうか?思うに「二重の寂しさ」によって形成されたのではないでしょうか。何が二重かというと、

  1. 親元の伝統的な価値観に戻ることができないという寂しさ。

  2. 新天地にも馴染むことができないという寂しさ。


 私は地方から出て東京でサラリーマンをしています。やはり東京は変化が多く、日本の最先端を行っています。例えば、地元でバスの運賃の支払いにICカードを使用できるようになるのは、東京から1〜2年くらい遅れてからでした。
 今から地元に戻って仕事をする、とするとどう思うか?今まで手に入れてきたものを失うようで気がひけるのが正直なところです。


 『あの子は貴族』という映画をご覧になったことはありますか?
 北陸の田舎から猛勉強して慶応に入った女子大生が、内部生との格差に驚くという話です。それに近いものがあります。(私も似たような経験をしたことがあります。)
 都会に出てきたとしても、まずは新参者。都会には既存のコミュニティが存在します。信頼を積み重ねて仲間に入れてもらうのは、一朝一夕には行きません。地元のようにのびのびとはいかないものです。

 つまり、進むにも孤独、戻るにも孤独という精神状態になってしまうのです。
 どこのコミュニティにも馴染むことができない寂しさを、あらゆる既成の価値観を否定するという極端なスタンスを取ることでごまかしているのではないでしょうか。肩肘を張っているのです。

 2015年と少し古いデータになりますが、約4割の人が現在住んでいる地域に地元意識を持っていません。進学や就職によって生まれ育った土地を離れる人は多いと思いますが、離れた先で居場所を作れるかは別の問題です。時間がかかる問題であり、個人の努力には限界があります。
 改めてバザーロフは非常に現代的なキャラクターであり、バザーロフ的人間は私を含め溢れているように思うのです。

 進むこともできず、戻ることもできないことの不安定さは、どうすれば解消できるのでしょうか?
 答えは、「好きなことを発信すること」であると考えます。
 既存のコミュニティに収まれないのは、あなたの努力だけの問題ではありません。でも、居心地が悪いままでいるのも嫌でしょう。
 幸い、現代はnoteの様なプラットフォームが充実しています。好き、楽しいというポジティブな感情に人は惹かれて集まります。自分が新しいハブとなり、人を集めましょう。
 今あるものを否定するだけより、きっと楽しいと思いますよ。

結論

【居場所がないときは〇〇】父と子/ツルゲーネフ①

 皆さんは世代間ギャップを感じることはありますか?
 例えば、以下のようなものです。

  • 上司は石の上にも三年って言うけど、、、今は転職が当たり前の時代だよな!

  • 30歳までには結婚しろって言われるけど、今は一人でも生きてける時代

  • 大企業に骨を埋めるよりも、フリーランスとして個の力を活かすべき

 とはいえ、本当に新しい価値観を受け入れて良いだろうか、幸せになれるのだろうかという迷いもありませんか?
 古い価値観から新しい価値観への過渡期における迷いです。

 ツルゲーネフ父と子』の舞台となる19世紀半ばのロシアも似たような状況下にありました。時代の過渡期をどのように乗り越えるべきか、ヒントを得るべく見てみましょう。

あらすじ

 反動的なニコライ1世から改革派のアレクサンドル2世の治世へと変わり、農奴制の廃止をはじめとして急進的な資本主義の導入が進められておりました。
 主人公アルカージイは、名門サンクトペテルブルグ大学を卒業したばかりの青年です。彼が友人のバザーロフとともに、実家に帰省するところから物語が始まります。

 物語の前半では、親世代と子世代の対比が描かれます。保守的な親世代に対し、最先端の知識に触れ、合理に基づいた変革を求める子世代。
 ところが、物語の後半ではその流れが変わってきます。親子vs.親子というように、親子同士の対比が浮き彫りになってくるのです。
 主人公アルカージイが所属する農場の経営者や地主といった上流階級。そして友人バザーロフが所属する労働者階級。
 アルカージイの家業は農場経営で、今でいうと地場企業の経営者のようなものです。
 一方でバザーロフの家は医者です。医師というと裕福なイメージがありますが、資本の蓄積がなく、あくまで身ひとつで生計を立てていかなければならないという点でアルカージイら貴族と対比すると大きく異なっています。
 アルカージイは、同世代として革新的な主張をするバザーロフに同調していましたが、物語が進むにつれて保守的な地主の実家の価値観に回帰していきます。
 育ってきた環境の違いから、根底にインストールされている価値観が異なっていたのです。

 表面では合理に基づいた変革が進みそうだが、実は根深い階級格差が厳然として存在する。どうでしょう、現代の日本とリンクするように思いませんか?

 このバザーロフという男が物語を動かすトリックスターとして活躍するので、次の記事で詳しく見てみましょう。

【うちの職場はバカばかり?】地下室の住人/ドストエフスキー②

前回の記事に引き続き、ドストエフスキー地下室の手記』について書きます。

   なぜ彼は「周りの人間がバカに見えるという病」をここまでこじらせてしまったのでしょうか?
 結論としては、受け身な態度が原因かと思われます。
 第二部で語られるエピソードを見て見ましょう。

 
  • 道をすれ違う時に向かいの人が道を譲るか譲らないかにこだわる

→向かいの人が道を譲ってくれるはずだ、という受け身

  • 同窓会に呼ばれていなかったことに粘着

→同級生なのだから誘ってもらえるはずだ、という受け身

  • 自分に気のある素振りを見せた風俗嬢に対してメンヘラムーブ

→きっとありのままの自分を受け止めてくれるはずだ、という受け身

 しかし、相手任せのスタンスを貫いていると、世の中が嫌になってしまうと思うのです。というのも、以下のような悪循環に陥ってしまうからです。

①他人に勝手に期待をする → ②期待通りにならない → ③他人に失望 → ④自分の世界に閉じこもる → ⑤他人への期待がさらに独り善がりになる

 自分の期待をわかってほしいのにわかってもらえない、と感じたときに、自分の伝え方が悪かったんだ、ではなく相手の方がバカだと認識することで失望感を解消しようとするのです。
 心理学で言うところの「合理化」のメカニズムですね。

 しかし根本の原因は適切に自分の期待を伝えていないことであり、黙っていても自分の願望を周囲の人間が叶えてくれるはずだという受け身のスタンスにあるのです。
 他人がどう思うかを変えることは容易ではありません。やがて絶望に至り、世の中を呪うようになります。
 一方で、自分の行動や思考には改善の余地があります。変えられるものを変えようとする方が生産的だし、結果も出るから楽しいと思うのです。

 主人公が架空の人物であることを良いことに言いたい放題しましたが笑、他人に一方的に期待する受け身な姿勢は改めよう、と実感できる作品でした。

 ぜひ、実際に手にとって読んでみてください。

 

【うちの職場はバカばかり?】地下室の住人/ドストエフスキー①

 皆さんは、周りが無能やバカに見えてしまうことはありますか?私は昔はよくありました。笑(今はないですよ!)
 見方を変えれば現状に不満がある状態とも言えますので、そのような状況からは脱出したいですよね。
 きっとヒントになる本がありますので、ご紹介いたします。

 主人公は学業優秀なのですが、自意識過剰で他者を見下すきらいがあり、理屈っぽく、社会と折り合いがつけられず隠遁生活に甘んじているという人物です。(国語の教科書でお馴染みの『山月記』李徴のイメージです。)本作は主人公が一人部屋に引きこもって書気連ねた文章という体裁をとっています。

 

あらすじ

 第一部は主人公の独白、第二部は主人公の若き日のエピソードという二部構成になっています。

 第一部では主人公の思想が饒舌に語られます。
 当時のロシアに西欧から流れ込んできた合理主義(そしてそこから派生した社会主義)を批判し、人間は理性では割り切れないのだと主張します。

 二、二が四とは、実に鼻持ちならない奴だ。二、二が四なんぞ、俺に言わせれば、厚かましいにもほどがある。偉そうに恰好をつけて、腰に手を当てて人の行く手に立ちはだかり、頭から人を蔑んでいるじゃないか。二、二が四が実に申し分のない結構なものであることは認めるよ。でもなにからなにまで誉めるというなら、二、二が五だってときにはそれは可愛らしいものだと言えるんじゃないか?

地下室の手記』光文社新訳古典文庫 p69

 第二部では、主人公の若き日のエピソードがいくつか語られます。どれも自意識過剰です。笑

  • 道をすれ違う時に向こうの人が道を譲るか譲らないかにこだわる

  • 同窓会に呼ばれていなかったことに粘着

  • 自分に気のある素振りを見せた風俗嬢に対してメンヘラムーブ

 客観的に見ると滑稽に見えるのですが、自身を振り返ると共感できてしまうのが悔しいところです。。。

 第一部、第二部を通して、主人公はずっと以下のような調子なのです。

あの連中(注:同僚)ときたらどいつもこいつも薄のろで、おまけに群れの中の羊みたいに互いにそっくりなのだ。ひょっとすると役所の中で、自分は臆病な奴隷なのだという気が絶えずしていたのは、ただ一人、俺だけだったかもしれない。そんな気がしていたのは、まさに俺の知性が発達していたからである。

地下室の手記』光文社新訳古典文庫 p88

 賢い人間ならおよそ、まともな何者かになれるはずがない、何者かになりうるのは愚か者だけだ。

地下室の手記』光文社新訳古典文庫 p13

 こんな風に他人を見下していたら、人が離れていってしまいますよね。結結局、主人公は勤め先を退職して自室に引きこもり暮らすようになります。

 なぜ彼は「周りの人間がバカに見えるという病」をこじらせてしまったのでしょうか?次の記事で深掘りしていきます。

【孤独で不安なあなたへ】自由からの逃走/フロム

 自由は素晴らしい。こうしてブログで考えたことを表現できるのも、好きなところに旅行できるのも、すべて先人たちが自由を獲得してくれたおかげである。
 一方で、自由であるということは将来への不安が付き物である。周囲を見回すと、その不安につけ込まれて、転職や自己啓発や投資などに駆り立てられている人が多いように感じる。
  フロムの著作『自由からの逃走』は、「自由」の功罪を見つめ直し、社会を逞しく生き抜こうと勇気付けられる名著であった。本作を読んで考えたことをシェアしたい。

 

 内容の要約は至る所で目にすることができるが、改めてまとめると概ね以下の通りである。

 人々はルネサンス宗教改革、資本主義と、歴史を通じて自由を獲得してきた。
 一方で、自由の副作用として、自立した個人が孤独や不安、無力感といった感情を抱え込むこととなった。
 自由の重さに耐えかねた個人は以下のような行動を起こす。
 ①権威主義に陥り権威へ盲従したり他者を支配しようとする、②破壊行為によって他者との共棲から逃れようとする、③自己を棄てて社会に埋没する
 これらのメカニズムが最悪の形で具現化してしまったのがナチスである。
 孤独の恐怖を解消する方法は、人間や自然と自発的な関係を結ぶことである。
 個人と世界の調和のうちに、真の自由が達成される。

 

 二点内容の妥当性に疑問を感じたので、掘り下げたい。

1.社会システムの変革は現実的か
フロムは以下のように述べて、フロイトの理論を批判している。

 フロイトは彼の属していた文化の精神によって、非常にゆがめられていたために、その限界からさらに進むことはできなかった。まさにこれらの限界が病的な人間を理解するさいの限界となっていた。またそれは正常人の理解にも、社会生活に起こる非合理現象の理解にも、不利な条件となった。

 しかし、これはフロム自身にも当てはまるのではないか?
  反抗期という一過性の時期を、社会の一般的な法則として措定していること。歴史が一方通行的に進むという世界観や、人間と動物の違いを強調する記述から垣間見えるユダヤ教キリスト教の影響。作中では当たり前のように書かれているが、必ずしも当然視はできないと感じる。
 思うに、結論ありきな側面が多分にあったのではないか。フロムは、マルクスの資本主義批判にフロイト精神分析の理論を融合させた人物である。文章で前面に押し出されてはいないが、資本主義に対する批判が本書の裏テーマとなっていると推測する。

 しかし、資本主義というシステムに責任を負わせることは適切だとは思わない。人間の性質が変わらない以上、社会の仕組みは変わらないのではないか。土地を媒介として領主が支配する中世から、金銭を媒介として企業が支配する資本主義へと移行したものの、結局人が人を支配するという構造は変わっていない。社会システムを丸ごと入れ替えるより、個人の行動を少しずつ変えるほうが得策だと思う。

 

2.結論は実践可能か
 本書も、社会の変遷に触れつつも最終的には個人の自助努力を勧める形で着地している。
 結論である、自発的に自然や人と関わること(=愛)。これは全くの正論であると思う。しかし、窮乏している人ほど実践が難しい。卑近な例を挙げると、仕事の締め切りに追われている時は、目の前のタスクを処理することで精一杯だ。中長期的に業務を改善しようと考えたり、同僚と情報交換するどころではない。自発性の発揮には余裕が必要なのである。個人の努力に委ねてしまうと、豊かな人がより豊かになって、貧しい人がより貧しくなりかねない。だから、本書のメッセージは、本当に助けを必要としている人には届かないのではないか、というもどかしさを感じる。

 

低いハードルから始めよう
 では、将来に漠然とした不安がある、希望が持てない、という閉塞した状態からはどう脱出すればよいのだろうか?
 一日一つでいいから、気になることや新しいことをしてみることが一つの打開策となると思う。ハードルは低ければ低いほどいい。
 例えば、こういったことでも十分である。

  • コンビニで新しい飲料を買ってみる
  • 一本隣の道を通って通勤してみる
  • いつもの定食屋で、普段頼まないメニューを頼んでみる

 始めは何も感じないかも知れないが、ああしたい、こうしたい、という思いがきっと少しずつ出てくるはずである。焦らなくていいから、その時を気長に待とう。それがフロムのいうところの「真の自由」の端緒である。

 

 

【グレーゾーンを取り戻せ】街の上で/今泉力哉

 今泉力哉監督の映画『街の上で』を観た。東京の下北沢を舞台にした恋愛群像劇である。古着屋で働く主人公・青は、物語の冒頭で恋人の雪に振られてしまう。雪を諦めきれず悶々としていたところ、自主制作映画への出演を依頼され、何気ない日常にちょっとした変化が起こる、というあらすじである。

 

 まず、リアリティの高さが印象に残った。登場人物たちが本当に下北沢に暮らしているのではないかと錯覚した。景色は実際に下北沢でロケをして撮られており、この場所はあの辺りだな、とつい現実の世界とリンクして観てしまう。私は学生の頃下北沢に度々行くことがあったので、知っている場所が出てきて嬉しい気持ちになった。また、作中では会話シーンが占める割合が多いのだが、現実の会話のようにたどたどしさや微妙に噛み合わないぎこちなさがあって、演技であることを忘れてしまう。

 

 作品にさらにリアリティを持たせる仕掛けとして、街ゆく人々にもディテールが張り巡らされている。一例として、古着屋に来ていた若い男女に着目してみる。物語の序盤で青の務める古着屋に来た時は、二人は微妙な関係性であった。女性は男性のことが好きなのだが、男性は別の女性のことが好きで、告白するための服を買いに来ている。男性はもし一番好きな女性から振られたら、その時は付き合ってもいいよと言うが、女性は複雑な心境である、、、と端役にも関わらず具体性の高い設定となっている。そして二人が物語の終盤で一瞬画面に写り込んだ時には仲よさそうに歩いており、この二人にも映像に写っていない間に物語があったのだな、と思わされる。本作はあくまで青の物語として編集されているが、名もない登場人物にさえ、ドラマがあることが伝わってくる。それによって青の周囲の人間関係に留まらない、下北沢という街の広がりを感じるようになっている。

 

 ストーリーには大きな起伏があるわけではなく、平凡な日常生活の一部を垣間見ているようである。それでも観終わった後に充実感が残った。故郷に戻ってきたかのような懐かしさ、安堵感である。その正体を考えてみると、今は失われつつある濃厚な人間関係で構成されたコミュニティへのノスタルジーではないかと思い至った。

 

 青は下北沢という場に根ざした人間関係に包摂されている。例えば、バーや古本屋やカフェなど、行きつけの店がいくつもある。仕事の合間に顔を出し、店の主人や常連と何気ない会話を楽しんでいる。しかも、元恋人の雪が、青の行きつけのバーのマスターに青との関係を相談していたり、亡くなってしまった古本屋の主人について、青とカフェのマスターが思い出話をしたりと、お互いが共通の知り合いである。青は身近な人間関係のネットワークに囲まれて暮らしているのだ。

 

 社会の変化に目を向けてみると、人々は地縁と血縁に囲まれて暮らしていたが、仕事の為に縁もゆかりもない場所で働くようになり、家族も核家族化、そして非婚化へと規模を縮小していった。その結果、個人は社会にむき出しで放り出されるようになり、温かい人間関係がどんどんと貴重なものとなった。流動的な人間関係の中で、承認をもらうために汲々とするようになった。私も地元から上京しており、地域の顔見知りに囲まれて暮らす生活には一種の憧れのような感情がある。

 

 また、青が所属する下北沢のコミュニティは「ムラ社会」というワードで象徴されるようなネガティブな側面を感じない。例えば理不尽なしきたりや排他性、停滞性のようなものである。強迫観念的に結びつきを求めるのではなく、程よい距離感を保ちながらもゆるい繋がりがあるところが今っぽいと感じた。

 

 青は地味で押しの弱い、不器用な青年として描かれている。出演を依頼された自主制作映画の出演シーンも、演技がガチガチすぎて結局カットされてしまった。しかしそれで良いのだ。なぜなら周囲の人間関係という帰れる場所があるからである。失敗の苦悩を一人で抱え込む必要はなく、またチャレンジへと踏み出すことができる。帰還場所の存在が、青に柳のようなしなやかな強さを与えているのではないだろうか。

 

 流動的な人間関係の元では、能力主義に則って自己承認を求めざるを得ない。そこで支配的になるのは合理性や経済性といった観念である。しかし、それだけでは息苦しくなってしまう。日本では「ムラ社会」の記憶から、コミュニティへの拒否反応が蔓延しているように思われる。しかし、しがらみの否定の一辺倒では、どんどん能力主義のドツボに嵌ってしまうだろう。ゼロ百ではなく、ゆるいつながりというグレーゾーンを生み出す努力が求められているのではないだろうかと感じた。

 

遠ざかる故郷の空 帰れない人波に
本当の幸せ教えてよ
壊れかけの radio

壊れかけのRadio/徳永英明

 

【成功へのステップ】ゴリオ爺さん/バルザック③

 パート2に引き続き、バルザックの小説『ゴリオ爺さん』の感想を書いていく。パート2では、各メイン登場人物のギブ&テイクに対するスタンスの違いについて書いた。

 

 二つ目のトピックは、r>gの関係についてである。r>gとは、経済学者トマ・ピケティが著作『21世紀の資本』で主張した理論であり、資産運用により得られる収益(r)は労働により得られる収益(g)より大きいため、格差は拡大し続けるということを主張した。彼の理論は膨大なデータに基づいており、また肌感としても事実なのだろう。アメリカでは、2018年時点では最も裕福な10%が家計資産の70%を保有しているという。1989年時点では割合は60%であり、富の集中が進んでいることがわかる。

 本作『ゴリオ爺さん』は、『21世紀の資本』に引用されたことで話題となった。引用されたのは、「ヴォートランのお説教」と呼ばれる箇所、ヴィクトリーヌとの結婚によって遺産相続をすべきだとラスティニャックに力説するシーンである。たとえエリート街道を進めたとしても、勤め人としての収入(g)はたかが知れているのだから、法を犯してでも遺産を相続(r)する方が良いというヴォートランの意見は、ピケティの主張と一致する。r>gの法則は時代に関わらないのだ。

 しかし、rの側に立てるのはごく一握りに過ぎない。私たち一般庶民はこの法則から逃れることはできないのだろうか?金持ちの家に生まれなかった時点で希望はないのか?なけなしのボーナスを株式投資に投じ、金持ちになれる日を待ちわびるのが良いのだろうか。しかしグローバルな投資家の連中に勝つためには、数百万といった単位の元手では到底足りないだろう。それに、確実に資産を増やせるという保証はどこにもない。

 

 実は裏をかく方法がある。既存の競争に参加しなければよいのである。元手となる資本とはお金や土地などに限られない。資本とは、無限に自己増殖するものである。例えば飲み会で友達が友達を呼び交友関係が増えていくということや、本を読み、疑問を解決したところ、新たな疑問が思い浮かび知識が深まっていくというサイクルも存在する。そこでは、人脈や知識が資本として機能している。元手は、考え方を変えれば、既に手元にあるものなのだ。どんな小さなことでもいいので、過去を振り返ってみると何かヒントが見つかると思う。私たちは周りの人々から施しを受けて成長してこれたのだから。

 

 もう一つ必要となるのは、自己増殖のループを回すための動力源である。元手を育て続けられるかがポイントになるが、何かを継続することは難しい。例えば毎朝ランニングをしようと決めても、昨日は飲み会で帰りが遅かったとか、今日は天気が雨だからとか、何かと理由をつけてやらなくなってしまうことが目に浮かぶ。モチベーションが続かなくなった理由は、単純に「本当はやりたいと思っていないから」である。ランニングを始めるきっかけは、痩せて異性に良く思われたい、健康になりたいといったことだろう。別にランニング自体はやりたいことではないので、言い訳ができると自然と辞めてしまうのだ。だから、何かのためにすることではなくて、つい癖のようにやってしまうことに着目するのが良いと思う。自分にとって自然なことが、一番無理なく続けることができる。

 

 実はこの自分なりの資産を築くためのサイクルは、他者志向型ギバーとの行いと一致しているのだ。①自分が今持っているもの(周囲から与えてもらったもの)に感謝し、②自然とやってしまうこと(素直な気持ちでやりたいこと)をアウトプットして社会に還元することで、③自分なりの財産を手に入れることができるし、周囲もハッピーになる。それをラスティニャックは実行できており、結果として出世街道を登りつめることができたのだろう。

 

 成功するためのヒントを考えるきっかけとなり、良い学びとなった。登場人物のキャラが立っており、登場人物たちの掛け合いが面白い。ぜひ読んでみてください。