【成功へのステップ】ゴリオ爺さん/バルザック②

 パート1に引き続き、バルザックの小説『ゴリオ爺さん』を読んだ感想を書いていく。

 

■感想
 パリという大都会を舞台に描かれる人々の利害関係が印象に残った。そうした利害関係を最も象徴するものは、お金である。収入や年金の金額について克明に描写されていた。この小説について、二つのテーマから分析を行いたい。

 一つ目は、ギブ&テイクの関係についてである。メインの登場人物であるラスティニャック、ヴォートラン、ゴリオは3人ともギブ&テイクについて異なるスタンスを持っている。
 アダム=グラント著『GIVE & TAKE』をお読みになったことはあるだろうか。グラントは人間を他人から奪おうとする人であるテイカー、他人に与えようとする人のギバー、相手に合わせて振る舞いを変えるマッチャーという類型に分けられると主張している。一見、利他的なギバーが周囲の協力を得て社会で最も成功するかに思われるが、実は最も成功するグループと成功しないグループの両極端に別れるというのだ。最も成功に遠いギバーは他人を最優先して自分を後回しにする自己犠牲的ギバーである。テイカーにも分け隔てなく分け与えてしまうため、利益をむしりとられてしまうのだ。一方で、成功するタイプのギバーは他人目線でものを考え、お互いが幸せになる提案をする人々であり、他者志向型ギバーと名付けられている。
 ヴォートランは、欺瞞に満ちた社会を唾棄し、利己的に自分の利益を追い求める。そのためには他人を利用することを厭わず、手段は問わない。これはテイカーのスタンスに合致するだろう。一方で、ゴリオは過度に利他的である。製麺業者として財を成し、娘たちを上流階級に嫁入りさせた後も、娘たちからお金をねだられる度に気前よく分け与えてしまい、老後の年金を切り売りする状態となっている。いうまでもなく自己犠牲型ギバーである。ラスティニャックはお人好しで、ゴリオに同情して面倒を見てやったり、出世した後は自身の仕立て屋の商売を助けてやったり、別の作品では後は妹たちの嫁入りの際に多額の持参金をつけてやったりと、義理堅く周囲の人々を助けている。一方で出世のために人脈を作り社交界を利用する計算高い面もある。周囲にギブをするが、自分の取り分もキッチリと確保する、他者志向型ギバーに該当する。

 自分も関係者も幸せにする他者志向型ギバーが最も望ましいあり方であろう。では、他者志向型ギバーの特徴は何だろうか?ラスティニャックの行動を参考にすると、以下の3点にまとめられると思う。①自分が素直にやりたいと思ったことをやりつつも、②所属するコミュニティに感謝し、恩に報いようとするため、③結果として自身も周囲も幸せになっている。
 ヴォートランは、社会のありようを見下しており、自分を重用することのなかった世間に怨みを抱いている(②)。だから、違法な方法に頼ってさえ、金銭を得ることに執着し、世間を見返してやろうと思っているのだろう。それは、自分が世間に受け入れられたいという欲望を屈折した形で表現しているにすぎない(①)。結果さえ得られれば良いのだから、ラスティニャックに共謀を持ちかけた遺産の横取りのように、他者の富を横領しようとするのだろう(③)。
 では、ゴリオについてはどうだろうか。同じギバーであっても、どこで命運が別れてしまったのだろうか。ゴリオは確かにギブを行なっているが、娘たちに幸せになってほしいというよりも、財産を分け与えることで自分の寂しさを紛らわせ、自己重要感を満たそうとしていただけではないのだろうか。おそらく本人も自覚できておらず、一見娘たちへの愛情を示すような行為でありながら、実は自分自身にベクトルが向いた結果の行為である点が、他者志向型ギバーとの重大な違いだと思う(①②)。自分に関心が向いているため、一方的に身を切る形でしか行動できない(③)。
 ひとことでまとめると、「恩送り」や「情けは人のためならず」といった言葉がぴったりだろう。(パート3に続く)

【成功へのステップ】ゴリオ爺さん/バルザック①

 バルザックの小説『ゴリオ爺さん』は、革命後の余波に揺れる1819年のパリを舞台に、南仏の没落貴族出身の青年ラスティニャックが立身出世を目指す姿を描く物語である。彼から現在を生きる私たちが学べることは何だろうか?

 

当時のパリは現在の東京のように稠密な都市であり、金と欲望が渦巻く街である。その日暮しの労働者たちもいる一方で、貴族やブルジョワたちは豪奢な暮らしぶりを満喫している。ビジネスで成功した人たちが湾岸のタワーマンションに集うように、パリでも高級住宅街にブルジョワたちが集う。高級ブランドの洋服やバッグを見せびらかすように、貴族たちが舞踏会でドレスを競っている。人の心理は、時と場所が隔たっていても変わらないのだと面白く読めた。ラスティニャックは、出世を目指して上流階級に潜り込み、成功を収めた。

 

■あらすじ ※がっつりネタバレ
 ラスティニャックはみすぼらしい下宿に住まい、大学で法学を学んでいる。法曹になることを目指していたが、やがて出世のためには後ろ盾となる縁故が必要であることに気づき、社交界に足を踏み入れることを決意した。幸運にも遠い親類に大貴族ボーセアン夫人がおり、助力を得られることとなった。また、実家のなけなしの財産から多額の援助をはたいてもらうことで、サロンに出入りすることができるようになった。しかし、そこで目の当たりにしたのは、慇懃無礼で嘘と虚栄心に満ちた人々の姿であった。
 ラスティニャックと同じ下宿に住むヴォートランは彼の出世欲に目をつけ、遺産目当ての暗殺の共謀を持ちかける。同じ下宿に住むヴィクトリーヌという少女が、実は資産家タイユフェール氏の非嫡出の娘であるというのだ。ヴィクトリーヌはラスティニャックに惹かれており、ラスティニャックが望めば彼女と結婚することができる。ヴォートランが知人に頼みヴィクトリーヌの兄に決闘をけしかけ殺せば、タイユフェールの唯一の子供であるヴィクトリーヌに遺産が転がり込むだろうという算段である。彼は現在の日本円にして5億もの大金と、ヴォートランの欺瞞と偽善に満ちた社会に反抗するような思想に抗えない魅力を感じつつも、堅実に自らの努力によって出世すべきと良心との間で葛藤する。
 ラスティニャックは社交界での後ろ盾を得るため、デルフィーヌという女性に接近するが、デルフィーヌもまたボーセアン夫人と繋がりのあるラスティニャックを手元に置いておくことで、一流のサロンに出入りする足がかりとして利用しようとしていた。新興ブルジョワの銀行家に嫁いだ彼女は、古くからの名門が集まるサロンからお誘いがかからなかったのである。ラスティニャックは彼女に近づくために両親からもらった財産をほぼ使い果たしてしまう。金の必要性に迫られてヴォートランの誘いに傾倒しかけたところ、突然警官たちが下宿に乗り込み、ヴォートランは逮捕されてしまう。実は彼は指名手配中の脱獄犯だったのである。
 ところで、デルフィーヌはラスティニャックと同じ下宿に住む実業家ゴリオの娘であった。ゴリオはデルフィーヌともう一人の娘アナスタジー(貴族のレストー伯爵のもとに嫁いだ)の二人を偏愛しており、自らの経済状況を顧みず甘やかしてしまう。彼は財産のほとんどを彼女たちに分け与えてしまった結果、苦学生のラスティニャックと同じ下宿で暮らす羽目となっている。ラスティニャックはゴリオの純粋な父性に心打たれるが、娘たちはゴリオを単なる金づるとしか見ておらず、義憤にかられる。ゴリオの娘たちは同じ舞踏会に出席することになり、お金をゴリオにねだりに下宿を訪ねたところ、鉢合わせしてしまう。普段から中の悪い姉妹のことであるから罵り合いの喧嘩に発展し、その場に居合わせたゴリオは心労で卒中に倒れてしまう。ラスティニャックは父親が危篤のときぐらい舞踏会よりも看病にきたらどうだと姉妹たちに要請するが、彼女らは一向に下宿に来ようとしない。苦しみぬいた挙句娘たちを呪いながらゴリオは死の床についた。娘たちは葬儀に参加することもなく、ラスティニャックは社交界の人々の冷淡さに薄ら寒い感情を覚えた。それでも俗悪な世界に打ち勝ち、登りつめていくことを決意したところで物語は幕を閉じる。(パート2に続く)

【アートと資本主義】地図と領土/ミシェル・ウエルベック

 フランス現代文学界の大スター、ミシェル・ウエルベックの小説「地図と領土」を読んだ。芸術と資本の関係がテーマとなっているが、日本の閉塞感とも通底する問題があると感じ、興味深く読めた。2021年には日経平均株価が30年ぶりの高値となり、3万円を突破した。社会は経済的に豊かになっているはずなのに、私たちの生活は、果たして楽になっているだろうか?普通の生活を営むためのハードルは上がるばかりではないだろうか?
 
■あらすじ ※がっつりネタバレ
 主人公のジェド・マルタンの芸術家としての半生が描かれる。彼は極度に非社交的で厭世的な人物である。生活圏は専ら自宅と近所のスーパーマーケットのみで、親交のある人はおらず、仕事での付き合いがいくばくかあるのみである。
 ミシュランの地図を被写体にした写真作品を製作していたところ、ミシュラン社の広報担当のオルガとの偶然の出会いをきっかけに華々しい社交界に足を踏み入れることになる。プレス担当として雇われたマリリンの辣腕もあり、彼の初の個展は大成功。一夜にして美術界の寵児となる。オルガとは恋仲になるが、仕事のキャリアの問題によって破局してしまう。
 オルガとの別れをきっかけにミシュラン地図の写真作品の製作をきっぱりと辞め、職業をテーマとした絵画のシリーズを製作し始める。ギャラリストであるフランツの勧めに従って、展覧会のカタログ用の文章を依頼するため、ジェドはミシェル・ウエルベック(作家自身が作中に登場する)と出会う。「形式よりもテーマが重んじられるべき」という、芸術に対する二人の思想は一致しており、ジェドはウエルベックに親近感を覚える。しかし、職業シリーズの絵画の展覧会が成功を収めた後、ウエルベックが何者かによって殺害されてしまう。また、同時期に唯一の肉親であった父とも死別し、親しい人は周囲に誰もいなくなってしまう。
 すでに億万長者となっていたジェドは故郷の祖父母の実家および周辺の広大な敷地を買取り、要塞のように敷地の周りを柵で覆い、孤独な生活に舞い戻る。晩年はヨーロッパの産業時代の終焉を彷彿とさせるようなノスタルジックな映像作品を作成しつつ、静かに息をひきとる。

■感想
 アートと資本主義の関係、また、あらゆるものが市場による評価に晒され数値に還元されていくことについて考えさせられた。
 本作の冒頭は主人公のジェドが、現代アート作家であるダミアン・ハーストとジェフ・クーンズの肖像画を描くシーンから始まる。彼らはジェドに言わせると「テーマよりも書き方を優先させる」作家であり、現代アート界を象徴する存在として描かれている。作家のウエルベックは本作を通して現代アート界に遺憾の意を表明しており、彼らの肖像画は作中ではジェドによってナイフでズタズタに切り裂かれた上で破棄され、ゲロを吐きかけられさえしている。では、なぜ作者は現代のアートシーンに抗議しようとしているのだろうか?それは、作家が表現を試みているテーマには目もくれず、ユニークで革新的な表現方法がもてはやされているからである。極言すると、中身よりも外見がすべてとなっていることを嘆いている。

 例えば、ジェフ・クーンズの代表作「セレブレーション」シリーズを見てみよう。アイコニックなビジュアルは、非常にキャッチーである。表現の対象になっているのは、ホームパーティーを彩る動物型のバルーンである。100円ショップやドン・キホーテで安価に手に入るものであり、ありふれた庶民的なものの象徴である。そのような大量生産品でさえ、精巧に磨き上げられたステンレス鋼によって制作することで、重量感や光沢のある質感が相まって、なにか価値のありそうな「アート」として受け入れられることになる。2019年には彫刻「ラビット」が存命中のアーティストとして当時最高額である約100億円で落札されている。価値のあるものを表現するかよりも、どう表現するかの方が重要であるということを示す典型例である。価値があると思うものを表現するのではなく、みんながパッと見で良いものを表現するのである。みんなが欲しいものは高い価格がつき、高い価格がつくものは価値がある、という資本主義のロジックを逆手に取るためである。

出典:https://twitter.com/jijicom/status/1128909260862046208

 一方でジェドは表現のスタイルを何度か変えつつも、産業社会の中を生き抜く人々の姿を一貫して表現しようとしている。彼自身が作中で述べている通り、彼は自分を取り巻く世界に向き合い、それを形にして表現したいという強い欲求があったためである。億万長者の売れっ子作家となったものの、経済的成功には関心がなく、ひたすら関心の赴くままに作品を作り続けた。ジェドの作品の社会的評価である価格は、評論家たちの書いた評論記事や、広報担当のオルガやプレス担当のマリリンのプロモーションによって演出されたジェドの虚像、そして成金のコレクター達の蒐集熱と競争心よって形作られたものである。展覧会では、そうして作られたイメージを損なわないよう、ジェド自身は沈黙することすら要求されており、きらびやかなパーティの賑わいを傍観者として眺めるのみである。作品の価値とは無関係に、自己増殖的に価格が釣りあがっていく。素朴な個性の表象であったはずの作品は作家自身の手を離れ、商品として市場のメカニズムに飲まれていく。

 現代社会においては、望むと望まざるとに関わらず、あらゆるものが社会的評価に晒され、格付けの対象とされている。確かに、市場による評価を元に価値を推し量ることは便利である。食べログで美味しい飲食店を探し、Amazonプライム・ビデオで人気の映画を視聴することで、私たちは快適な生活を送っている。しかし、反面でその矛先が私たち自身にも向くことを忘れてはならない。偏差値や年収などの能力的な指標のみならず、SNSのフォロワー数や、マッチングアプリのいいね!数などにより人格的な評価すら数値化されるようになってきている。あらゆる面が数値に置き換えられていくことに、息苦しさを覚える人も多いのではないだろうか。例えば、私たち自身が商品となる就職活動は最たる例である。学生は偏差値という画一的な基準で仕分けされ、快活な社会人像に適合しているかどうかが測られる。企業ごとに就職偏差値が設けられ、より難度の高い企業から内定を得た者が周囲から高い評価を得る。

 本来、ひとりひとりには個性があり、比べられないものであるはずだが、一つの物差しで優劣をつけられているように感じ、競争に駆り立てられる。良いスコアを取ることができるかどうかで、私たちは一喜一憂する。それは、現実を数字で置き換えることがあまりに分かりやすすぎるために、唯一の正解であると錯覚してしまうからだと思う。しかし、あくまで数字は匿名の人々からなる社会を形作るために用いられるフィクションである。数字はあるものの価値のごくわずかな側面を表象したものに過ぎず、あたかも「地図と領土」の関係のようである。しかし、本当に大切なのは不特定多数の人々ではなく、身の回りの家族や友人だと思う。それであれば、フィクションに適応しつつも、本当の自分はこういう人間だという気持ちと矜持を持ち続けることが必要になる。社会に評価され、生きていくために必要な食い扶持を稼ぐことももちろん重要だが、それはあくまで手段に過ぎないということを忘れず、資本の論理という荒波を乗りこなす必要があるのだろう。