【アートと資本主義】地図と領土/ミシェル・ウエルベック

 フランス現代文学界の大スター、ミシェル・ウエルベックの小説「地図と領土」を読んだ。芸術と資本の関係がテーマとなっているが、日本の閉塞感とも通底する問題があると感じ、興味深く読めた。2021年には日経平均株価が30年ぶりの高値となり、3万円を突破した。社会は経済的に豊かになっているはずなのに、私たちの生活は、果たして楽になっているだろうか?普通の生活を営むためのハードルは上がるばかりではないだろうか?
 
■あらすじ ※がっつりネタバレ
 主人公のジェド・マルタンの芸術家としての半生が描かれる。彼は極度に非社交的で厭世的な人物である。生活圏は専ら自宅と近所のスーパーマーケットのみで、親交のある人はおらず、仕事での付き合いがいくばくかあるのみである。
 ミシュランの地図を被写体にした写真作品を製作していたところ、ミシュラン社の広報担当のオルガとの偶然の出会いをきっかけに華々しい社交界に足を踏み入れることになる。プレス担当として雇われたマリリンの辣腕もあり、彼の初の個展は大成功。一夜にして美術界の寵児となる。オルガとは恋仲になるが、仕事のキャリアの問題によって破局してしまう。
 オルガとの別れをきっかけにミシュラン地図の写真作品の製作をきっぱりと辞め、職業をテーマとした絵画のシリーズを製作し始める。ギャラリストであるフランツの勧めに従って、展覧会のカタログ用の文章を依頼するため、ジェドはミシェル・ウエルベック(作家自身が作中に登場する)と出会う。「形式よりもテーマが重んじられるべき」という、芸術に対する二人の思想は一致しており、ジェドはウエルベックに親近感を覚える。しかし、職業シリーズの絵画の展覧会が成功を収めた後、ウエルベックが何者かによって殺害されてしまう。また、同時期に唯一の肉親であった父とも死別し、親しい人は周囲に誰もいなくなってしまう。
 すでに億万長者となっていたジェドは故郷の祖父母の実家および周辺の広大な敷地を買取り、要塞のように敷地の周りを柵で覆い、孤独な生活に舞い戻る。晩年はヨーロッパの産業時代の終焉を彷彿とさせるようなノスタルジックな映像作品を作成しつつ、静かに息をひきとる。

■感想
 アートと資本主義の関係、また、あらゆるものが市場による評価に晒され数値に還元されていくことについて考えさせられた。
 本作の冒頭は主人公のジェドが、現代アート作家であるダミアン・ハーストとジェフ・クーンズの肖像画を描くシーンから始まる。彼らはジェドに言わせると「テーマよりも書き方を優先させる」作家であり、現代アート界を象徴する存在として描かれている。作家のウエルベックは本作を通して現代アート界に遺憾の意を表明しており、彼らの肖像画は作中ではジェドによってナイフでズタズタに切り裂かれた上で破棄され、ゲロを吐きかけられさえしている。では、なぜ作者は現代のアートシーンに抗議しようとしているのだろうか?それは、作家が表現を試みているテーマには目もくれず、ユニークで革新的な表現方法がもてはやされているからである。極言すると、中身よりも外見がすべてとなっていることを嘆いている。

 例えば、ジェフ・クーンズの代表作「セレブレーション」シリーズを見てみよう。アイコニックなビジュアルは、非常にキャッチーである。表現の対象になっているのは、ホームパーティーを彩る動物型のバルーンである。100円ショップやドン・キホーテで安価に手に入るものであり、ありふれた庶民的なものの象徴である。そのような大量生産品でさえ、精巧に磨き上げられたステンレス鋼によって制作することで、重量感や光沢のある質感が相まって、なにか価値のありそうな「アート」として受け入れられることになる。2019年には彫刻「ラビット」が存命中のアーティストとして当時最高額である約100億円で落札されている。価値のあるものを表現するかよりも、どう表現するかの方が重要であるということを示す典型例である。価値があると思うものを表現するのではなく、みんながパッと見で良いものを表現するのである。みんなが欲しいものは高い価格がつき、高い価格がつくものは価値がある、という資本主義のロジックを逆手に取るためである。

出典:https://twitter.com/jijicom/status/1128909260862046208

 一方でジェドは表現のスタイルを何度か変えつつも、産業社会の中を生き抜く人々の姿を一貫して表現しようとしている。彼自身が作中で述べている通り、彼は自分を取り巻く世界に向き合い、それを形にして表現したいという強い欲求があったためである。億万長者の売れっ子作家となったものの、経済的成功には関心がなく、ひたすら関心の赴くままに作品を作り続けた。ジェドの作品の社会的評価である価格は、評論家たちの書いた評論記事や、広報担当のオルガやプレス担当のマリリンのプロモーションによって演出されたジェドの虚像、そして成金のコレクター達の蒐集熱と競争心よって形作られたものである。展覧会では、そうして作られたイメージを損なわないよう、ジェド自身は沈黙することすら要求されており、きらびやかなパーティの賑わいを傍観者として眺めるのみである。作品の価値とは無関係に、自己増殖的に価格が釣りあがっていく。素朴な個性の表象であったはずの作品は作家自身の手を離れ、商品として市場のメカニズムに飲まれていく。

 現代社会においては、望むと望まざるとに関わらず、あらゆるものが社会的評価に晒され、格付けの対象とされている。確かに、市場による評価を元に価値を推し量ることは便利である。食べログで美味しい飲食店を探し、Amazonプライム・ビデオで人気の映画を視聴することで、私たちは快適な生活を送っている。しかし、反面でその矛先が私たち自身にも向くことを忘れてはならない。偏差値や年収などの能力的な指標のみならず、SNSのフォロワー数や、マッチングアプリのいいね!数などにより人格的な評価すら数値化されるようになってきている。あらゆる面が数値に置き換えられていくことに、息苦しさを覚える人も多いのではないだろうか。例えば、私たち自身が商品となる就職活動は最たる例である。学生は偏差値という画一的な基準で仕分けされ、快活な社会人像に適合しているかどうかが測られる。企業ごとに就職偏差値が設けられ、より難度の高い企業から内定を得た者が周囲から高い評価を得る。

 本来、ひとりひとりには個性があり、比べられないものであるはずだが、一つの物差しで優劣をつけられているように感じ、競争に駆り立てられる。良いスコアを取ることができるかどうかで、私たちは一喜一憂する。それは、現実を数字で置き換えることがあまりに分かりやすすぎるために、唯一の正解であると錯覚してしまうからだと思う。しかし、あくまで数字は匿名の人々からなる社会を形作るために用いられるフィクションである。数字はあるものの価値のごくわずかな側面を表象したものに過ぎず、あたかも「地図と領土」の関係のようである。しかし、本当に大切なのは不特定多数の人々ではなく、身の回りの家族や友人だと思う。それであれば、フィクションに適応しつつも、本当の自分はこういう人間だという気持ちと矜持を持ち続けることが必要になる。社会に評価され、生きていくために必要な食い扶持を稼ぐことももちろん重要だが、それはあくまで手段に過ぎないということを忘れず、資本の論理という荒波を乗りこなす必要があるのだろう。